その昔、沖合いの船を助けるために嵐の中を漕ぎ出していった15人の男たちがいました。
今から90年も前の大正元年(1912年)12月27日の事です。塩津の26隻の漁船が漁に出たところ、午前10時頃から、地元で「潮巻き」と呼ぶ大あらしになりました。救援を求められた唯浦(現在の美保町)から4隻、釜浦から1隻、もどってきていた塩津の漁船のうち2隻が救援に出て、6隻の船を連れ帰る事ができました。2隻は自力で坂浦へと避難したのですが以前3隻が行方不明のままでした。 そのため唯浦の15人の青年たちは、疲労した体で昼食もとらないまま、再度救助に出発したのです。午後2時40分頃のことでした。このあと唯浦と塩津の2隻も続き、その船と行方不明の2隻は自力で海岸に戻ってきましたが、残り1隻と救助の15人はついに戻ることはありませんでした。
それから3年後の大正4年に、唯浦天狗岩に「義勇」と刻まれた顕彰碑を建て、帰れなかった15人の青年たちを奉りました。昭和15年には教科書にもこの話がとりあげられたそうです。
義勇の碑には下記のように刻まれています。
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嗚呼此是只浦青年殉難諸士哀悼之碑也。事在大正元年十二月二十七日、此日風浪俄起漁船遭難。諸士決然衝撃浪蹴怒濤縦横捜索、救済難破船四隻。一旦着岸更欲救他船再出遂不帰、哀哉。其壮烈之蹟載干村誌、真為青年之模範。諸士誰也、氏名如左
下手尚一 中上武市 高岸屋樽松 大上忠太郎 三屋庄太郎 上広市 大屋丈之助 玉木屋伝市 中西栄蔵 本屋敷乙市 新屋竹市 中屋敷庄蔵 下徳市 橋詰常蔵 大空由太郎
大正四年六月
従五位勲六等 本田嘉種撰併書建設者北浜村青年会長和泉林市郎元総理大臣若槻礼次郎閣下よりの弔詩 守訓殉難十五人 悁人取義即成仁 北浜湾外浪如雪 航客正襟哀弔新 北浜村青年十五人守訓不顧危難。欲救助難破船。竭尽心力而不成 遂喪其身命。余聞而義の賦一詩 遙寄吊意。
八十二叟 克堂 禮
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石碑
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※文中の氏名は本名ではありません。屋号と名前になっています。
※一部旧字のため当て字を使っています。
さてこの話、映画では冒頭にそれらしいシーンが出てくるのですが、この義勇の話を彷彿されてくれます。
海の男は、勇敢でやさしい人であるってことを頭の片隅において映画を見てください。
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